7月中旬、ホーチミン市に仕事と休養を兼ね行ってきた。
ドーハからマドリッドに向う途中、突然の酷いめまいに襲われ大変な目に遭ったから、今度、起きたらどうしようかと心配した。
ANA機は、心配をよそに、タンソンニャット空港に無事着いた。
1974年解放前に行った時は、地上砲火を避けるために、エアーベトナム機は全ての室内電気を切り、非常降下の姿勢を取り、旋回しながら、薄暗いタンソンニャット空港に着いた。
当時、ベトナム戦争中、飛行場には南ベトナムの戦闘機と迷彩色を施した米軍機ばかりだった。飛行場からは国際機関から手配された車に乗り、薄暗い街を通り抜け、ホテルマジエステイックに着いた。
市内の中心部メコン河沿いの一等地にある五つ星ホテルである。
その当時、このホテルの宿泊者は米軍の幹部や将校、それと国連関係者、記者クラブが入っていて、物々しい警備だった。街に出ると浮浪者や戦争で足や腕を失った人ばかり、物乞いする孤児の子ども達、娼婦をして生活を支える婦人、まさに、ベトナム戦争真最中だった。その一年後の75年、アメリカはベトナム戦争に負け、北ベトナムによって解放され、サイゴン市から北ベトナムの父であるホーチミンと名称を変えた。
1925年、フランス領の時、建てられたホテル、どこか、南仏風の建物、外装は変わってないが、内装はすっかりリニュアールされていた。懐かしさもあり、ホテル内を歩き廻った。
廊下に名門ホテルの証とばかり、建設中の時代から写真が飾られている。
その中で目に止まった写真があった。
1940年撮影とある、現在も過去もマジエステイックと書かれている看板には「日本ほてる」とある。戦争当時、日本軍が侵略した時、やはり、日本軍にとって接収された貴重な証拠であった。
懐かしい想いもあるが、やはり、戦争は嫌だ、市民を不幸にするだけだという思いをさらに強くした。
ホテルマジエステイック
http://www.majesticsaigon.com/jp/index.php